どうも夏目です(^人^)
最近は雨でなかなか外に出るのが出来ない日々が続いていて少しフラストレーションがたまっておりました。
そんななか先日、台風一過のあとぶらりと名古屋を外出するしました。
今回行ったところは
ここです(^人^)
どこでしょうか?
ここは
揚輝荘です。
ここがどんなところで何に使われていたのか紹介したいと思います。
今回はその前編です。だれが作ったのかを障がいしていきたいと思います。
揚輝荘をつくった伊藤祐民とは?
揚輝荘は
大正に名古屋に伊藤次郎左衛門祐民によってつくられた別荘のことです。
この方の血筋がものすごいです!
初代が伊藤祐道という方なのですが、この方別名で蘭丸と呼ばれています。
蘭丸と聞いてピンとくる方はそこそこの歴史好きです。
そう森蘭丸です。
森蘭丸は織田信長に仕えた小性(召使的な存在)の1人です。実は蘭丸というの森蘭丸以外にも3人いたそうでそのうちの1人が初代の伊藤祐道だったそうです。
しかし一番有名な森蘭丸はご存知の方もいると思いますが、あの本能寺の変で信長と一緒になくなっています。
その後伊藤祐道は武士をやめて商売人として生き始め、1611年に呉服小間物問屋を開業しております。
実は揚輝荘をつくった伊藤次郎左衛門祐民にも実は武士の名残があります。
それは名前の中にある左衛門という文字です。
これは実は戦国時代の武士の役職名を現しており、左衛門という門を守っていたからではないかとも言われております。
信じるか信じないかはあなた次第です。
この伊藤祐民さんの代で17代になっております。
なので、非常に由緒ある家柄の方です。
ではこの伊藤祐民はなにをした人なのか?
伊藤祐民の業績
祐民は問屋をしていましたが、その後とある百貨店を開いております。
名古屋の方ならご存知の百貨店です。
そう、、、
松坂屋です。
この名古屋で有名な百貨店を作ったのが伊藤祐民です!
名古屋で最初につくられたデパートメントストアです。
それ以外にも名古屋商工会議所の会頭として、名古屋観光ホテルの建設、名古屋駅の開業、和合ゴルフ場開業など名古屋を国際都市ふさわしいまちづくりを行っていきました。
そういった活動の一環として別荘である揚輝荘も作っております。
まとめ
名古屋の街づくりをする上で伊藤祐民は大きな役割を果たしました。今日名古屋が日本を代表する都市となる礎を気付いたのはこういった方々のおかげなんだだなと実感しました。
後編では揚輝荘の建物の中について紹介したいと思います。
補足
名古屋の街が作られたのが江戸時代の初期の頃で、昔は尾張国の中心は清洲であったそうです。
それを街ごと名古屋に移して、今の名古屋の街が作られたそうです。
名古屋中心部が碁盤の目のように綺麗に区画されているのはそのためだそうです。
揚輝荘のボランティアのおじいさんから教えてもらいました。
おじいさんの知識はすごいなあと思いました。
これこそ温故知新ですね。