どうも、夏目です。
最近戦国時代の歴史に改めてはまっております。
それで今日はみんなが知っているこの人、、
織田信長です。
これもみんな信長さんです。
小学校、中学校、高校と歴史を学んだ人なら存在はほとんどの人が知っていると思いますが、ふと思うのが、
この人って実際に何やった人だっけ?ということ。
その疑問を少しでも知ってもらえたらいいかなと思います。
幼少時代
織田信長は尾張の戦国大名である織田信秀の嫡男として生まれます。幼少期の名は吉法師。若いころは奇怪な行動をたくさんとっていたことから「うつけ」とよばれていました。
その有名なエピソードの1つに父である信秀が亡くなった葬儀の場で焼香を手でつかんでぶちまけるというとんでもないことをしています。
みなさんは絶対やらないで下さい!
天下取りに名乗りを上げた桶狭間の戦い
父が亡くなりその後を継いだわけですが、もともと大きな大名であったかというとそんなに大きな大名ではありませんでした。
そんな彼が一躍有名になったのが、桶狭間の戦いです。
当時今川義元は駿河・遠江(現在の静岡県)を治める大大名で、2万5千の軍勢を率いて尾張へと攻め込んできました。これに対する織田勢は2千。数の上では織田方が圧倒的に不利でした。
そんな中でも頭を働かせて、豪雨の中今川本陣に奇襲をかけて総大将である今川義元の首を取り戦いに勝利を収めます。
そこから信長の天下取りに名乗りをあげていきます。
信長が行った政策について
信長が天下統一に近づけた理由として彼が行った政策が大きく影響しております。特に他の人があまりやっていないこともしているので、パイオニアとして描かれるのもそのためなのかなと思います。
具体的に何をしたのか?
楽市・楽座や関所の廃止
楽市・楽座というのは簡単に言うと「誰でも自由に商売してもいいですよ」という制度です。その当時は座といういわゆる同業者の組合が利益を独占するような形をとっていました。
それを廃止して、税を軽減して経済を活性化させる取り組みを行いました。
そして国を越えるたびに通らなければならない関所も経済活動の邪魔だと考えて廃止しました。
その結果、信長が統治する国は経済が回るようになり、お金をたくさん稼ぐことができ、次のような政策を行えるようになりました。
傭兵制度の導入
戦国時代というと一年中戦いに明け暮れていたのではないかとイメージしがちですが、実際はそうではありません。
なぜかというとこの時代の兵のほとんどが足軽である農民であったからです。
今でいうところの出稼ぎ労働者で兵はまかなわれていたのです。
そのため、田植えや稲刈りなどといった農業の季節になると国に帰ってしまいます。
なので戦をすることができません。
実際に戦国最強と謳われた武田の騎馬隊もそのほとんどが農民であったそうです。
農業の時期になると帰られては天下統一は進みません。
そこで、信長は楽市・楽座で手に入れたお金を使って、兵隊を雇うことを行いました。
「傭兵制度」です。
その結果信長は常設の軍隊を持つことができたので、戦をする上で圧倒的に有利になりました。
それとお金を使ってあることも行いました
徹底した実力主義の導入
戦国時代は下克上の時代といわれていますが、何だかんだで家柄などは重要視されていました。いわゆる同じ出身地の者や親族関係などで基盤を固めている人がほとんどでした。
そんな中で信長は実力主義で部下を登用していきます。有名なところでいうと、豊臣秀吉が足軽出身であったり、明智光秀が出身地が違う美濃国の浪人であったり、身分や出身を問わずに実力のあるものを好んで部下にしました。
中には、、
黒人の弥助と呼ばれる家臣もいたそうです。
ここまでくるとグローバル企業ですね。
信長の最期
天下統一まで後一歩というところで信長はこの世を去ってしまいます。
これが世に言う本能寺の変です。
そしてこれを起こしたのが家臣である明智光秀でし実力主義が招いたのがこの結果ですからなんともまあ皮肉なことでしょう。
これは現代社会にも言えることで実力主義で集めすぎると裏切りに遭うこともあるよと歴史が教えてくれています。
しかし、信長が行ったことは現在でも評価されることが多いのも事実です。