どうも夏目です。
昨日は徳川家康について書きましたが、今日はその内容について続きからお話したいと思います。
関東左遷から 秀吉が死ぬまで
前回家康が秀吉によって関東に左遷されたところまで書きましたが、そのときすでに48歳でこの時代では結構な年寄りになっているときでした。
ちなみに人間50年と歌った織田信長は48歳で死んでおります。かなりピンポイントでした。
なので今の社会人でいうところの
定年退職し終わっているレベルですね~
しかし、そんなことには関わりなく家康の人生はまだ苦労の連続・・・
秀吉の家臣として天下統一の協力をします。
その証として実話関東に飛ばされる前の1586年に、秀吉の妹を嫁にさせられています。
その妹は
すでに40歳をこえたおばちゃんだったそうです。
完全に嫌がらせやん!
そんなこんないろいろいろいろなことを家康は我慢していました。
そんな我慢の時代もいよいよ終わります。
1598年に豊臣秀吉が病没します。
そこからついに家康の時代がきます!
天下分け目の関ヶ原
秀吉が亡くなり、なぜ家康が力を強めていったのか?
なぜなら、秀吉の跡継ぎがまだ幼かったからです。
今でいうところの、
小学生ぐらいだったそうです。
当然政治を行うことは不可能であったので、家臣が行うわけですが、その家臣の中で筆頭であったのが徳川家康であったわけです。
それでうまいこと根回しなどをして豊臣政権を乗っ取ろうと思うわけです。
しかし、それに待ったをかける人がいました。
それが、
石田三成でした。
彼は豊臣秀吉の家臣として財政を主に行っていたのですが、かねてから家康のことを危険視していました。
そこで、豊臣秀吉の家臣たちと一緒になって家康を討とうと考えました。
しかし、それで豊臣家の家臣が一致団結して家康を討とうと考えたかというとそうではありませんでした。
家康が根回しをしていたので、三成率いる西軍につくのか、家康率いる東軍につくのか大名の中ではどちらにつくのか迷っている人が多かったそうです。
有名なのが昨年ドラマになった真田丸の主人公の
真田信繁(幸村)の家族です。
彼らは
東軍ー真田信之(兄)
といった具合に両方につくことによって大名として家が潰されるのを防ごうとしていました。
そして、いよいよ関ヶ原の戦いが起きるわけです。
その中で家康の根回しが成功し、結果として東軍が勝ちます。
その後西軍方について大名は家康が厳しく処分していき、1603年に江戸幕府を開きます。
いよいよここから完全に徳川政権の安泰かというとまだそうではありませんでした。
最後の敵豊臣家
江戸幕府を開いた徳川家康でしたが、まだ安心はできませんでした。
なぜなら、豊臣家が残っていたからです。
関ヶ原の戦いには豊臣家は直接的な関与はしていなかったため、家が処分されてはおりませんでした。(ただし、間接的に石高は減らされている)
そのため、影響力の強い豊臣秀頼がいることは幕府にとっては目の上のたんこぶでした。
何とかしたかった家康は1614年に方広寺鐘銘事件でうまいこと豊臣を討伐するための口実を得ます。
これは鐘の文字の中にある「国家安泰」が家康を字を分断しており、「君臣豊楽」豊臣の世が栄えて欲しいという意味合いで描かれているのでないかといつ口実です。
そんなこんなで1615年に大坂の陣で豊臣家を滅ぼします。
結局家康が統一できた理由はなにか?
ここまで家康が天下を統一して江戸幕府を開くまでの過程を描きましたが、一番大きな理由は何か?
それは家康が長生きしたからです。
この当時の平均寿命は40歳ぐらいだと言われています。
そんな中家康は74歳まで生きています。
ちなみに三英傑の中で織田信長は48歳、豊臣秀吉が62歳で亡くなっているので、圧倒的に長生きしています。
なぜそんなに長生きができたのかというと、
健康オタクだったからです。
家康は鷹狩りなどの運動を行い体を鍛え、自分で薬を調合したりして常に健康を意識していたそうです。
また、遊女(売春婦)をかわなかったそうです。
他の大名は行っていたことをしなかった理由でこの当時の流行っていた梅毒にかかりたくなかったからとも言われています。
もし家康が秀吉と同じ62歳で1603年に亡くなっていたら、江戸幕府は順調にはいかなかったでしょう。
2代目将軍徳川秀忠にはそこまでの器量はありませんでしたから。
目標を達成するためにはまず健康でいることが家康が身をもって教えてくれています。