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ナッツ ダイアリー〜その時々の時事や感情に任せて

歴史と旅が好きな元教員の書く徒然

本当の賢人とは何か? 小早川隆景に見る時代を捉える失敗しない生き方

どうも、夏目です。最近いろいろなことに興味があり、いろいろな話を聞くことがあるのですが、そのときにすぐにやるかやらないかの選択をすることが多い気がしています。

 

そんなときにある戦国武将の生き方が今の自分や今までの過去の自分に一番しっくりきたので書きたいと思います。

 

誰かというと、、、

 

 

 

この人です。

 

 

ぜんぜんピンとこないなあ~

 

 

書いている人がそう思うぐらいですから、一般的にはもっとピンとこないと思います。

 

 

この人は、小早川隆景です。

 

 

名前を言ってもピンとこないと思うので細かく書きます。

 

 

 

毛利家の三本の矢であり、毛利家を支える両川として 

 小早川隆景毛利元就の三男として生まれます。

 

毛利元就中国地方で大きな勢力を誇っていた戦国大名の一人です。

 

下克上の時代をまさしく知略をもってして成り上がった人です。

 

 

その父毛利元就が残した言葉として有名なのが「三本の矢」です。

 

 

これは元就が息子である隆元、吉川元春小早川隆景の三人の兄弟が協力して毛利家を支えてほしいという願いをこめて贈ったものだそうです。

 

 

この三本の矢は現代にも生きており、

 

 

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

Jリーグのサンフレッチェ広島の名前にも使われています。

 

 

 

そんなこんなで隆景は毛利家を支える一本の矢として生きていきます。

 

 

 豊臣秀吉に気に入られても貫く毛利家への忠節

 

 小早川隆景は非常に知略に優れた武将でした。入念な根回しや、情報収集によって時代の流れを的確に読むなど他の武将とは違った視点で戦国時代を見ていました。

 

 

そういったところはその時代のほかの武将からも高く評価されていました。

 

 

かの豊臣秀吉は彼を部下に引き入れようと毛利家の一家臣の身である隆景に対して伊予の国一国を与えるという異例の措置をとります。

 

 

現代的にいうと、大企業のトップの秀吉が子会社の一社員を他のグループの子会社のトップにするということです。

 

 

そうまでして隆景を家臣にしたいという気持ちがあったようです。

 

 

普通だったら喜んで引き受けますが、隆景は毛利家の教えを守り、あくまで毛利家を支えるという立場をとり続けます。

 

 

 そこがまた賢い立ち回りだとつくづく思います。

 

何事にも慎重に考えて決断する性格

 

 

小早川隆景は、ものすごく物事を考えて行動する人でした。

 

 

これは現代のようなスピードが求められる時代には少々逆行するようなところがありますが、私はこれがものすごく的を得ているような感じがします。

 

 

 彼の言葉にこんな言葉があります。

 

 

 

~長く思案し、遅く決断すること。
思案を重ねた決断であるなら、後戻りする必要はない~

 

 

 

世の中の流れが非常に速く、スピーディーな決断が求められる時代だからこそものすごく大切なことなのではないかなと思います。

 

 

早く決断することは一見するといいことのように思えますが、その反面間違えることも多いです。

 

 

当時天才と呼ばれていた豊臣秀吉の優秀な家臣の一人黒田官兵衛に対しても、「私が決断をするときは、考えに考え抜いた挙句ひとつことを選びます。あなたは頭が鋭いから勘に頼ってすばやく決断なさる。そのために、場合によっては仕入れた情報に誤りがあって決断が悪い方向へ導くことがあるでしょう。私はあなたほど頭がよくないから、そうせざるを得ないのです。」といって諌めたそうです。

 

彼は部下に対しても、

急ぐことはゆっくりせよ。

すぐにわかりましたというやつにわかったやつはいない。」と物事に対してじっくり考えることをといたそうです。

 

 

彼は死ぬ間際にも遺訓を残しており、

「天下が乱れても、輝元は戦のことに深入りしてはいけない。自分の領国を守り、失わないように心がけるべきだ。なぜなら輝元には天下を動かすだけの器量がない。もし天下の戦の謀に関与すれば、必ず今の領地を失い見を危うくすることになる。」

 

 

そしてその遺訓を輝元が無視した結果、毛利家は大きく衰退することになります。

 

 

隆景からわかること

 

 私はどちらかといえば考えてから行動することが多いので、最近のものごとのスピーディーさでは対応するのが正直なところ苦手であった。

 

 

しかし、小早川隆景の考え方を学んでからはじっくり考えて行動したほうが公開することは少なくていいなと思ったのでしっくりきています。

 

ビルバンで初めて行った歴史体験型イベント~そうだ甲冑を着よう!~

どうも久しぶりです。夏目です。

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なんと約2ヶ月近くブログを放置していました。

 

 

謝罪 に対する画像結果

ごめんなさい

 

 

これはやばいと10分ぐらい前に気づいたので久しぶりに書きます。

 

 

今日は好きな歴史のことで楽しいことができたことについて書きます。

 

 

 約2ヶ月ほど前からとあるイベントの準備をしておりました。

 

 

 

それが、、、

 ビルバンです。

 

ビルバンとは、詳しくはこちらで

araikoyo.com

 

 

 

その中で私は歴史ロールプレイングというブースを担当していました。

自動代替テキストはありません。

 その中で実際に紙で作った甲冑を参加者の皆さんに来ていただくということをしました。

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 着るとこんな感じになります。

 

 

ちなみに冒頭のは赤備えです。

 

 

赤で有名な武将には最近流行の井伊さんや昨年大河ドラマになった真田さんがあります。

 

 

甲冑は僕が作ったものでは決してありません。名前をここでは出すことができないので興味がある方は直接僕まで連絡をください。

 

 

その甲冑を着てクイズを答えるというものを行いました。

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 こんな漢字でクイズの答えを隠しながら。

 

 

 

最初は来るのかなと不安でしたが、

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 何人か実際に来てくれて体験してくださってうれしかったです。

 

 

 

そしてそれで気を良くした私はビルバン学校でしゃべった後に15:30からしゃべった後は、

 

 

 

 

ずっとサボっていました

 

 

 

他で楽しいことやってましたからそちらに参加していました(笑)

 

 

 

 

カジノありましたし、ビルバンバトル楽しいし、

 

 

 

それと今日気づいたことで、

 

 

事前準備もほとんどしていない。

 

 

 

今回のビルバンで自分がしたことを簡単にまとめると

 

1.メッセンジャーでのやり取り

2.ブースで立って説明(約2時間ぐらい)

3.全力で遊んだ

 

 

3.が全体の8割以上を占めていたと自身をもって言います!

 

 

 

ということでちょっとだけ反省します!

 

 

ブログちゃんとまた書くので許してください。

 

 

 

 

今回だけでなく、定期的こういった歴史のイベントは続けて生きたいと思います。

 

 

私がやりたいことに少しずつですが近づいてきたように感じます。

 

 

やっていて楽しいと思うことが大事なので多くの人が楽しんで歴史について学べる機械を作って生きたいと思います。そのためには勉強が必要ですが、がんばって勉強します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

au3ji1

徳川家康が260年も続く幕府を開くことができた本当の理由について考える 第2部

どうも夏目です。

 

昨日は徳川家康について書きましたが、今日はその内容について続きからお話したいと思います。

 

nattsu1991.hatenadiary.jp

 

 

関東左遷から 秀吉が死ぬまで

 

前回家康が秀吉によって関東に左遷されたところまで書きましたが、そのときすでに48歳でこの時代では結構な年寄りになっているときでした。

 

 

 

ちなみに人間50年と歌った織田信長は48歳で死んでおります。かなりピンポイントでした。

 

 

なので今の社会人でいうところの

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定年退職し終わっているレベルですね~

 

 

 

しかし、そんなことには関わりなく家康の人生はまだ苦労の連続・・・

 

 

 

 

秀吉の家臣として天下統一の協力をします。

 

 

 

その証として実話関東に飛ばされる前の1586年に、秀吉の妹を嫁にさせられています。

 

 

 

その妹は

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すでに40歳をこえたおばちゃんだったそうです。

 

 

 

 

完全に嫌がらせやん!

 

 

そんなこんないろいろいろいろなことを家康は我慢していました。

 

 

 

そんな我慢の時代もいよいよ終わります。

 

 

1598年に豊臣秀吉が病没します。

 

 

そこからついに家康の時代がきます!

 

天下分け目の関ヶ原

秀吉が亡くなり、なぜ家康が力を強めていったのか?

 

 

 

なぜなら、秀吉の跡継ぎがまだ幼かったからです。



今でいうところの、

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 小学生ぐらいだったそうです。

 

 

当然政治を行うことは不可能であったので、家臣が行うわけですが、その家臣の中で筆頭であったのが徳川家康であったわけです。

 

 

 

それでうまいこと根回しなどをして豊臣政権を乗っ取ろうと思うわけです。

 

 

 

しかし、それに待ったをかける人がいました。

 

 

それが、

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石田三成でした。

 

 

彼は豊臣秀吉の家臣として財政を主に行っていたのですが、かねてから家康のことを危険視していました。

 

 

 

そこで、豊臣秀吉の家臣たちと一緒になって家康を討とうと考えました。

 

 

 

しかし、それで豊臣家の家臣が一致団結して家康を討とうと考えたかというとそうではありませんでした。

 

 

 家康が根回しをしていたので、三成率いる西軍につくのか、家康率いる東軍につくのか大名の中ではどちらにつくのか迷っている人が多かったそうです。

 

 

有名なのが昨年ドラマになった真田丸の主人公の

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真田信繁(幸村)の家族です。

 

 

彼らは

西軍ー真田昌幸(父)、真田信繁(弟)

東軍ー真田信之(兄)

 

 

 

 

といった具合に両方につくことによって大名として家が潰されるのを防ごうとしていました。

 

 

 

そして、いよいよ関ヶ原の戦いが起きるわけです。

 

 

その中で家康の根回しが成功し、結果として東軍が勝ちます。

 

 

その後西軍方について大名は家康が厳しく処分していき、1603年に江戸幕府を開きます。

 

 

 

いよいよここから完全に徳川政権の安泰かというとまだそうではありませんでした。

 

 

最後の敵豊臣家

 江戸幕府を開いた徳川家康でしたが、まだ安心はできませんでした。

 

 

なぜなら、豊臣家が残っていたからです。

 

 

関ヶ原の戦いには豊臣家は直接的な関与はしていなかったため、家が処分されてはおりませんでした。(ただし、間接的に石高は減らされている)

 

 

そのため、影響力の強い豊臣秀頼がいることは幕府にとっては目の上のたんこぶでした。

 

 

 何とかしたかった家康は1614年に方広寺鐘銘事件でうまいこと豊臣を討伐するための口実を得ます。

 

 

これは鐘の文字の中にある「国家安泰」が家康を字を分断しており、「君臣豊楽」豊臣の世が栄えて欲しいという意味合いで描かれているのでないかといつ口実です。

 

 

そんなこんなで1615年に大坂の陣で豊臣家を滅ぼします。

 

 

結局家康が統一できた理由はなにか?

ここまで家康が天下を統一して江戸幕府を開くまでの過程を描きましたが、一番大きな理由は何か?

 

 

 

それは家康が長生きしたからです。



この当時の平均寿命は40歳ぐらいだと言われています。

 

そんな中家康は74歳まで生きています。

 

 

ちなみに三英傑の中で織田信長は48歳、豊臣秀吉が62歳で亡くなっているので、圧倒的に長生きしています。

 

 

なぜそんなに長生きができたのかというと、

 

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健康オタクだったからです。

 

 

家康は鷹狩りなどの運動を行い体を鍛え、自分で薬を調合したりして常に健康を意識していたそうです。

 

 

また、遊女(売春婦)をかわなかったそうです。

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他の大名は行っていたことをしなかった理由でこの当時の流行っていた梅毒にかかりたくなかったからとも言われています。

 

 

 

 もし家康が秀吉と同じ62歳で1603年に亡くなっていたら、江戸幕府は順調にはいかなかったでしょう。

 

 

2代目将軍徳川秀忠にはそこまでの器量はありませんでしたから。

 

 

 

目標を達成するためにはまず健康でいることが家康が身をもって教えてくれています。

 

 

 

 


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徳川家康が260年も続く幕府を開くことができた本当の理由について考える 第1部

 どうも夏目です。

 

 

前回、織田信長について書きましたが今回は、

 

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徳川家康について書こうと思います。

 

 

何で、彼が天下を取れたのかものすごく単純な理由であることは意外と知られていないかもしれません。

 

 

どうして天下統一することができたのか?

 

 

人質から始まった幼少期 

 徳川家康三河の大名の松平広忠の嫡男として生まれます。幼名:竹千代(たけちよ)

 

 

そんな竹千代少年の幼少期は苦難の連続でした。

 

 

それは、

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人質として生活を送っていたことです。

 

 

父である松平広忠氏は三河の小大名で周りを今川氏や織田氏に挟まれるという立場であったので非常に苦労していました。

 

 

今川氏

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織田氏

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どっちも怖すぎでしょ!

 

 

 

そんなこんなで織田氏、今川氏をたらいまわしにされます。

 

 

ただその中でもラッキーだったことは、今川氏で人質であった時に太原雪斎という今川氏の優秀な家臣の下で学べたことです。

 

 

そして、1560年の桶狭間の戦い織田信長今川義元に勝ったことで今川の人質から晴れて解放されます。

 

 

 

これで自由になれたと思ったのもつかの間でした。

 

 

 織田信長に苦渋をなめさせられた時代

 

桶狭間織田信長が勝ったことで家康は信長と同盟を結びます。これが「清須同盟」です。

 

 

しかしこれは対等な関係といううよりも、信長に家康が従うという従属的な関係でした。

 

 

立場的には信長が上だったので言うことは聞かなければなりませんでした。

 

 

 

それが顕著になって現れた事件があります。

 

 

 

これが、信康自刃事件です

 

 

 

家康の嫡男である松平信康織田氏の敵である武田氏と内通していると疑いがかけられてその結果自害させられています。

 

 

 

信康は非常に武勇などに優れた人間であった為、後に関が原の戦いで跡継ぎである秀忠が遅れた際には「信康がいきていたらなあ」とこぼすほどだったそうです。

 

 

 

また織田氏が近畿方面に攻める為に背後の戦国最強といわれた武田氏と戦う羽目になったりと、かなり貧乏くじを引かされています。

 

 

 

ちなみに武田氏と三方が原の戦いでこてんぱんにやられた際には、もう死ぬかもと覚悟したことがあり、その恐怖で、、

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うんこもらしちゃいました!

 

 

これはもらしたことを忘れない為に絵に描かせて自分への戒めとしたそうです。

 

 

このころも大変な時代でした。

 

 

豊臣秀吉にしてやられた時代

 

 しかし、1582年に本能寺の変織田信長が最期を遂げます。

 

 

 

これで晴れて信長から

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自由になりそろそろ俺の時代だ~と思った矢先に

 

 

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豊臣秀吉がうまいこと信長の後継者として名乗りを上げます。

 

 

そして信長の後継者争いで秀吉と家康は、小牧・長久手の戦いで戦います。

 

 

 

しかしここでも、秀吉が家康側にいた信長の息子の信雄をうまくとりこみ、最終的に両者和睦をすることになります。

 

 

 

そして秀吉の家臣となります。

 

 

それでいろいろとあって、本拠地の三河から関東に飛ばされます。

 

 

 

関東という今だと東京などがあり日本の中心ですがその当時はまだ開発前で田舎あったのでこれはいわゆる左遷です。

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そんなこんなで1590年家康48歳になっていますが未だに苦労が耐えない人生です。

 

 

 

果たして彼が栄光の天下統一に近づけるのか? 

 

 

続く

 

 

 


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織田信長って残虐なイメージがあるけど実際どうなのか調べてみた

 

どうも夏目です。

 

 

昨日に引き続き信長のことを書きたいと思います。

 

nattsu1991.hatenadiary.jp

 

 

 

信長のマイナスイメージ

 前回書いた信長はどちらかというと改革者としてのイメージの部分を書きましたが、今回は信長が持っているマイナスな部分である残虐な部分にスポットを当てて生きたいと思います。

 

 

 

その中で宗教勢力に対して行ったことについてできるだけ客観的に書いていきたいと思います。

 

  

 

比叡山延暦寺の焼き討ちについて

 

 

信長が行った非情な行動なとして比叡山延暦寺の焼き討ちです。

 

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 当時宗勢力である延暦寺の焼き討ちの際に僧侶のみならず、上人、女、子どもまで無情にも殺したといわれています。

 

 

 

 

端から見れば残虐で容赦ないなと思いますが、ふとここでおかしなことに気づきませんか?

 

 

 

お寺でお坊さんが修行をするところに、なぜ女、子どもがいるのか?

 

 

 

そう、お坊さんたち堕落しきっていたのです

 

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ということで修行もろくにしてないのはおかしいということでつぶしました。

 

 

こういったことも宗教勢力と戦った一つの理由ですが、もっと明確な狙いがあります。

 

 

 

宗教戦争の根絶

 戦国時代のころは宗教勢力が大きな力を持っていました。

 

例えばお寺には武装した、、

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僧兵もいました。

 

 

ちなみにこのときの比叡山延暦寺は僧兵がたくさんいる武装集団でした。

 

 

そして実際に武力行使の過激な行動もしています。

 

 

 

それが1536(天文4)年に起きた天文法華の乱です。

 

 

 

これは簡単に説明すると延暦寺側が日蓮宗側に対して「お前らの宗教認めてやるから金を出せ」とううような恐喝を行い、日蓮宗側がこれを拒否したことが原因で起きています。

 

 

 

怒った比叡山延暦寺側が天皇や幕府に討伐する許可を得て、日蓮宗二十一本山を焼き払い、法華宗の3000から1万人の人を殺害しています。

 

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お坊さんのくせにぜんぜん平和的なことをしてないやん!

 

 

 

 

戦国時代まではこういった宗教戦争はあちこちで発生していました。

 

 

 

 

 

中には幕府や天皇家などの政治に介入してくるやからもいました。

 

 

 

 

 

そんなこんなでかなり危ない集団であったのです。

 

 

今でいうところのISIL(イスラム過激派組織)みたいな感じです。

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ということで信長はそういった危ない宗教勢力を徹底的に潰しました。

 

 

 

 

しかし、信仰の自由は認めており、宗教の弾圧はしておりません。

 

 

 

信長は宗教勢力に対し、武装解除を行い、政治への介入することをやめさせました。

 

 

 

 

その結果、今の日本で宗教戦争は起きているでしょうか。

 

 

宗教的な対立が原因で起きている紛争は世界中で今も起きています。

 

 

アラブとイスラエルで起きている紛争がまさにそうでしょう。

 

 

また、欧米諸国で起きているテロ事件も宗教の対立が深く関わっています。

 

 

 

 

 

信長が宗教戦争を無くさなければ日本でもこういったことが起きていたかもしれません。

 

 

まとめ 

 信長が比叡山延暦寺の焼き討ちをしたことは一見すると残虐なイメージがありますが、そこにはいくつかの明確な意図があったと思われます。

 

 

 

 

そのときは確かに多くの人が亡くなっていますが、今の日本で宗教による紛争が起きていないのは信長のおかげかもしれません。

 

 

そういったところでは未来を見る先見性を持ち合わせた人物であったのではないでしょうか。

 

 

 


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織田信長がなぜ天下取りに名乗りを上げることができたのかを考えてみる

どうも、夏目です。

 

 

 

最近戦国時代の歴史に改めてはまっております。

 

 

 

 

それで今日はみんなが知っているこの人、、f:id:nattsu1991:20170308195856j:plain

 

 

織田信長です。

 

 

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これもみんな信長さんです。

 

 

 

 

小学校、中学校、高校と歴史を学んだ人なら存在はほとんどの人が知っていると思いますが、ふと思うのが、

 

 

 

この人って実際に何やった人だっけ?ということ。

 

 

 

 

その疑問を少しでも知ってもらえたらいいかなと思います。

 

 

 

幼少時代

織田信長尾張戦国大名である織田信秀の嫡男として生まれます。幼少期の名は吉法師。若いころは奇怪な行動をたくさんとっていたことから「うつけ」とよばれていました。

 

 

その有名なエピソードの1つに父である信秀が亡くなった葬儀の場で焼香を手でつかんでぶちまけるというとんでもないことをしています。

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みなさんは絶対やらないで下さい!

 

 

  

 

天下取りに名乗りを上げた桶狭間の戦い

 

 

 

 

父が亡くなりその後を継いだわけですが、もともと大きな大名であったかというとそんなに大きな大名ではありませんでした。

 

 

そんな彼が一躍有名になったのが、桶狭間の戦いです。

 

 

 

当時今川義元駿河遠江(現在の静岡県)を治める大大名で、2万5千の軍勢を率いて尾張へと攻め込んできました。これに対する織田勢は2千。数の上では織田方が圧倒的に不利でした。

 

 

そんな中でも頭を働かせて、豪雨の中今川本陣に奇襲をかけて総大将である今川義元の首を取り戦いに勝利を収めます。

 

 

そこから信長の天下取りに名乗りをあげていきます。

 

 

信長が行った政策について

 

 信長が天下統一に近づけた理由として彼が行った政策が大きく影響しております。特に他の人があまりやっていないこともしているので、パイオニアとして描かれるのもそのためなのかなと思います。

 

 

具体的に何をしたのか?

 

楽市・楽座や関所の廃止 

 楽市・楽座というのは簡単に言うと「誰でも自由に商売してもいいですよ」という制度です。その当時は座といういわゆる同業者の組合が利益を独占するような形をとっていました。

 

 

それを廃止して、税を軽減して経済を活性化させる取り組みを行いました。

  

そして国を越えるたびに通らなければならない関所も経済活動の邪魔だと考えて廃止しました。

 

その結果、信長が統治する国は経済が回るようになり、お金をたくさん稼ぐことができ、次のような政策を行えるようになりました。

 

 

傭兵制度の導入 

 戦国時代というと一年中戦いに明け暮れていたのではないかとイメージしがちですが、実際はそうではありません。

 

なぜかというとこの時代の兵のほとんどが足軽である農民であったからです。

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今でいうところの出稼ぎ労働者で兵はまかなわれていたのです。

 

 

そのため、田植えや稲刈りなどといった農業の季節になると国に帰ってしまいます。

 

なので戦をすることができません。

 

 

実際に戦国最強と謳われた武田の騎馬隊もそのほとんどが農民であったそうです。

 

 

 

農業の時期になると帰られては天下統一は進みません。

 

 

 

そこで、信長は楽市・楽座で手に入れたお金を使って、兵隊を雇うことを行いました。

 

傭兵制度」です。

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その結果信長は常設の軍隊を持つことができたので、戦をする上で圧倒的に有利になりました。

 

それとお金を使ってあることも行いました

徹底した実力主義の導入 

 戦国時代は下克上の時代といわれていますが、何だかんだで家柄などは重要視されていました。いわゆる同じ出身地の者や親族関係などで基盤を固めている人がほとんどでした。

 

 

そんな中で信長は実力主義で部下を登用していきます。有名なところでいうと、豊臣秀吉足軽出身であったり、明智光秀が出身地が違う美濃国の浪人であったり、身分や出身を問わずに実力のあるものを好んで部下にしました。

 

 

中には、、

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黒人の弥助と呼ばれる家臣もいたそうです。

 

 

ここまでくるとグローバル企業ですね。

 

信長の最期

 天下統一まで後一歩というところで信長はこの世を去ってしまいます。

 

 

これが世に言う本能寺の変です。 

 

 

 

そしてこれを起こしたのが家臣である明智光秀でし実力主義が招いたのがこの結果ですからなんともまあ皮肉なことでしょう。

 

 

 

これは現代社会にも言えることで実力主義で集めすぎると裏切りに遭うこともあるよと歴史が教えてくれています。

 

 

しかし、信長が行ったことは現在でも評価されることが多いのも事実です。

 

 

 


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松永久秀というとんでもないことをたくさんやらかした戦国大名

どうも、夏目です。最近戦国無双の動画を見たりして再び歴史にはまっていますが、その中で一人気になる人物が出てきました。

 

 

 

その名は、

 

 

松永久秀

 

 

 

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ゲームなどではこんな感じで描かれています。

 

なんかやらかしてそうなイメージですよね(笑)

 

 

何をやらかしてしまったのか?

 

 

3つほどやばいことをやらかしてます!

 

その1 東大寺を燃やす

 東大寺といえば奈良県にある有名なお寺ですよね。

 

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大仏が有名なお寺ですね。愛知県の人であるならば修学旅行で1回は行ったことがありますよね。世界遺産にもなっています。

 

 

そんな東大寺ですが実は2回燃やされています。

 

1回目は平安時代で、2回目が戦国時代でそのときに松永久秀が燃やしたと云われております。

 

 

戦国時代起きた東大寺大仏殿の戦いの際に燃やしています。

 

 

その際の夜襲をかけた際に松永軍が火をつけたともいわれています。しかしこれには諸説あり、不慮の事故であったのではないかともいわれています。いずれにしても東大寺の焼き討ちにかかわっていることは事実なのかなと思います。

 

 

その2 主君を滅ぼす

松永久秀は三好氏という大名の家臣でありました。

 

この三好氏が非常にで大きな権力を握り、三好政権という織田信長の前に戦国時代を簡単に統一しておりました。

 

 

しかし、この三好政権そんなに長くは続きませんでした。

 

 

理由は政権内で有力者がどんどん死んでいってしまったからです。

 

 

みんな若くして死んでいます。(20代~30代)

 

 

これに松永久秀が絡んでいたのではないかと噂されております。

 

 

信じるか信じないかはあなた次第です。

その3 時の将軍である足利義輝を暗殺する。

戦国時代は下剋上でいろいろな人が成り上がった時代ではありますが、そんな中でも将軍の力というのはなんだかんだであったと思われます。

 

 

 

その室町幕府の13代将軍足利義輝を殺しております。政治の実権を握りたかった松永久秀にとっては邪魔だったんでしょう。

 

 

 

足利義輝は将軍の中でも剣の達人であったといわれております。しかし、そんな達人でも多勢に無勢でかなわず、暗殺されてしまいます。

 

 

そして政治の実権を握ろうとしようとしていた矢先に新しく将軍をたてたのがあの織田信長でした。

 

 

 

裏切りと壮絶な最期

そんなこんなで松永久秀あっさりと信長に降伏します。戦って勝てないと思ったのでしょう。

 

 

しかし、いろいろあって結局最終的には織田信長を裏切ります。

 

 

 

結果として信長には負けてしまいます。

 

 

そして最期、、

 

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爆死します((((;゚Д゚)))))))

 

 

なにやらお気に入りの茶器を渡せば命を助けると信長が行ったそうですが、信用できないとして爆死したようです。

 

 

とはいえ松永久秀の生き方も面白いんじゃないでしょうか。

 

 

 

 


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